2019年6月1日更新(74号)
幻 聴 鈴木 禮子
山茱萸の金の花火が砕け散る彌生半ばの気圧の谷に
夢見月、桃月、帰春、竹の秋 日差し漸くなりまさるかな
沈丁花咲きて
乳白色、脂粉の香ひそかに撒きて
寿ぐやうに
梅・さくら 咲くとも寒き『早春』を吾は愛すと言ひし人あり
おそらくは『早春』の日に初恋の記憶ありてか物理の教師
揺れゐるは名も忘れたる花々ぞ群青に黄を滲ませながら
忘却を詠ひ上げたる
短歌ありき天空に尾を曳きて久しき
笑はざる否笑へざる一日を重荷となして黄昏は来る
城・さくら溶けあひていま昏れゆかむ 正目に見えぬ彼の姫路城
海津大崎に散り惑ひたる桜ばな
一世に一度吾は見たりし
又会はむまたも浴びたき落花の日 叶はぬことが人生に在る
山科の緩き流れを遡上して鴨のひな五羽餌をあさる日か
無鄰菴、疎水をめぐり酔ひしとぞくれなゐ淡き桜に噎せて
わが歩みいとたどきなくヨチヨチと庭のかたへの月桂樹まで
砂利の庭杖で辿るは
難くして癒ゆる日遂に無きかと思ふ
寒き日は鍋物が良し
月桂樹のかぐはしき香は胃の腑に沁みる
苧環と
十二単に忘れ草、花水木舞ひ春噎せ返る
今まさに綻びそめし薄紅の薔薇は香に立つ憂さを捨てよと
硬膜下血腫の手術も覚えなくいつか玄冬の囚人めきて
墓の木が枯れたと告ぐる娘のメール月余をわれは目を覚まさざり
窓外ゆ細き流れを追ふ日あり岸辺の黄色 野芥子は無傷
石段の昇降不能、辛うじて手摺と杖を頼みに動く
衰えは身に及びきて力なく、そを越えてゆく叡智はなきか
リハビリの一室にして人が言ふ老いは省きて「君は若い」と
「若い」とは励まし言葉 語りあふ人のいだける哀歓憐れ
くれなゐの大輪薔薇がさき撓む五月だ五月皐月は晴れて
甘酢ゆくレモンの香するコンポート炊きて冷やして一日の終り
神さぶる乃木神社をば振り仰ぐ 金州城外斜陽は如何に
荒涼と戦場はあり
希典の七言絶句高鳴りてくる
首振れど消えざる漢詩 残響はわが幻聴として繰り返し鳴る
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